あの朝

団地の5階に住んでいた。
今のところではなく、でも、同じ5階。
建物が軋む音がして、地鳴りがした。
え?
とわずかな間を置いて地震がきた。

まさかそれがそんな遠くの地震だとは思いもよらず。
朝のニュースでも、まだ正確な情報が流れていなかった。

事態を知ったのは昼頃、出先のテレビを見たときだった。
ちょうどいたところの責任者は芦屋の出身で、みるみる顔が青ざめて行く。
他にも阪神地区に縁のある人もいて、午後の予定を全て中止にして、私たちは解散した。

幾人かの友人が神戸や西宮に住んでいたり、あるいは実家があったり。
自宅に戻って、狂ったように電話をかけまくった。
誰にもつながらなかった。

連絡がとれ始めたのは4日目だったろうか。
遠く離れて、行き来が頻繁でなかった友人たちに、それでもそんなに早く連絡がついたのは、今考えるとほんとうに驚くべきことだったと思う。
あたしも必死だったけど、みんなも生きるために必死だったと。
力を使えるものが、求めるものに差し出す。それはあたりまえのことで、特別なことをしているとはこれっぽっちも思わなかった。

日が経って。
やはり悲しい知らせも入ってくる。
つらかった。受け入れることのできない感情を抱えたまま、東京で暮らすのは、想像以上にきつかった。
なぜなら、同じ立場の人が、自分の手の届くところにはいなかったから。やるせない想い、泣きたくても泣けない夜。

そして。
さっきよみがえってきた、ずっと奥底にしまってあった記憶。
やっときた春のある日、あたしは長田にいた。
友人のかわりに。彼女は海の向こうで闘病中で、ご両親の住む長田に来ることができずにいた。
ご両親とは地震のあと連絡がとれていない。彼女は長田に住んだことがないので、ご両親の交友関係がわからない。
現地に行っても消息をつかむことは難しいだろうと思った。
実際、なんにもない焼け野はら。
地図は役に立たなかった。
どこから道でどこから家がたっていた場所なのか、さっぱりわからない。
でも、たぶんこのあたりだろう、と見当をつけた。
なんにもなかった。なんにも。
きっとここにいたのね。手で砂というか、土というか、瓦礫の粒々に近いもの、をすくいとり、持ってきた布の袋がいっぱいになるまで詰めた。

その袋を帰国した彼女に渡せたのは、それからずいぶん経った、暮れのある日だった。
何も言葉にできず、抱き合って泣いた。
いつまでもいつまでも泣いた。

それきり、彼女とは音信不通になった。

あたしに会えば、そのときと同じになる。どこへも行けない。だからだろう、と思う。
どこへ行ったのだろう。日本には他に身寄りはなかった。アメリカには家族がいたので、おそらく今もアメリカにいるのだろうと思う。

元気でいてくれるなら、それでいい。
そこにいてさえ、くれれば。
いつか会えるかもしれない。

あと数時間でまたあの時間がくる。
黙祷をささげよう。
全ての御霊に。
そして。今を生きる人々のために祈ろう。












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